大阪近鉄バファローズ

大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年から2004年まで存在した日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに加盟していた。大阪府保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドーム専用球場(本拠地)としていた。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は、かつて府内藤井寺市にあった近鉄藤井寺球場であった。

1999年3月までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)であった。

2004年、球団及び近鉄グループの経営難から、オリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照。オリックス・バファローズの球団史においては、大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。

  • 4度のリーグ優勝を果たすものの、日本シリーズ優勝は1度も果たすことができず、2004年のシーズン終了を以って55年間の歴史に終止符を打った。
  • 球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。
大阪近鉄バファローズ(解散時)
チーム名 大阪近鉄バファローズ
会社名 株式会社大阪バファローズ
加盟団体 パシフィック・リーグ(1軍)
ウエスタン・リーグ(2軍)
創設年度 1949年
チーム名の遍歴 近鉄パールス(1949年1958年
→近鉄バファロー(1959年1961年
→近鉄バファローズ(1962年1998年
→大阪近鉄バファローズ(1999年2004年
フランチャイズの
遍歴
大阪府1952年2004年
本拠地 大阪ドーム(1軍)
藤井寺球場(2軍)
収容人員 36,477人(大阪ドーム)
オーナー 田代和
運営母体 近畿日本鉄道
監督 梨田昌孝
タイトル リーグ戦:4回、日本シリーズ:0回
優勝年度 (リーグ戦)1979、1980、1989、2001
プレーオフ 3回 - 2勝1敗(太字は勝利した年)
1975、19791980
  

目次

[編集] 球団の歴史

[編集] 黎明期

藤井寺球場(1軍は当初1983年までは準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。2軍は創設当初から本拠地だった)
藤井寺球場(1軍は当初1983年までは準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。2軍は創設当初から本拠地だった)
1958-1983年のメイン本拠地・日生球場
1958-1983年のメイン本拠地・日生球場
1997-2004年の本拠・大阪ドーム
1997-2004年の本拠・大阪ドーム

 

設立当初より低迷が続き、万年Bクラス・最下位の近鉄は「チカ鉄(近をチカと読ませ、地下鉄に掛けたもの。つまり地下に潜りっぱなしの低迷という意味)」「パ・リーグのお荷物」などと揶揄された。

[編集] 初優勝、熱パ

西本幸雄監督の元、リーグ初優勝をとげ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬監督の就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり、野茂ブームもあいまって熱パの象徴と呼ばれるようになった。

  • 1974年、チームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードする。
  • 1975年、初めて優勝(ペナント2期制度での後期優勝)となる。プレーオフで阪急に敗れる。
  • 1977年4月26日、ロッテ戦で鈴木啓示が200勝達成、近鉄入団の生え抜き選手としては唯一の名球会入り選手となった。
  • 1979年、選手育成が実を結び西本幸雄監督の下で初のリーグ優勝。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦に9回裏の近鉄の攻撃が江夏の21球と呼ばれ、球史に残る名勝負となるが、3勝4敗で敗退する。
  • 1980年、飛ぶボールの効果もあり、日本記録(当時)となるシーズンチーム本塁打239本を記録(但し被本塁打は251本)し、リーグ2連覇を成し遂げた。日本シリーズは前年に引き続き広島と対戦するが、この年も3勝4敗で日本一に輝くことは出来なかった。
  • 1981年、西本幸雄が監督辞任、関口清治が監督就任。
  • 1983年、関口清治が監督辞任、岡本伊三美が監督就任。
  • 1984年5月5日鈴木啓示が通算300勝を達成。鈴木は翌1985年現役に引退をする。
  • 1986年、129試合目まで優勝争いをするものの、惜しくも2位。
  • 1987年、前年ドラフト1位で獲得した阿波野秀幸が15勝を挙げ、新人王を獲得する活躍をみせるもののチームは最下位となる。岡本伊三美が監督辞任、仰木彬が監督就任。
  • 1988年、前年までリーグ3連覇中の西武ライオンズと最後まで優勝争いを繰り広げる。
  • 1989年、この年西武、オリックス・ブレーブスとの三つ巴による、前年を上回る優勝争いの末9年ぶりの優勝を果たす。
    • 10月12日、西武の優勝がかかった試合(ダブルヘッダー)でブライアントが2試合で4打数連続本塁打の活躍をするなど連勝、この年のパリーグを象徴する試合となった。
    • 10月14日、藤井寺球場でのダイエー戦に勝利、129試合目で優勝決定する。
    • 日本シリーズでは読売ジャイアンツに3連勝後4連敗を喫し、日本一ならず。
    • ドラフトでは8球団競合の抽選の上、野茂英雄を獲得する。
  • 1990年、野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得するなどの活躍を見せMVP、沢村賞を獲得、以降4年連続で最多勝を獲得するなど、野茂(ドクターK)ブームを巻き起こす。しかしチーム1992年まで当時黄金時代と言われた西武ライオンズと優勝争いはするもの、優勝できなかった。
  • 1992年7月8日新井宏昌が2000本安打を達成(近鉄在籍時代の打者としては唯一)。
  • 1993年、鈴木啓示が監督に就任。しかし、野茂や吉井理人と言った主力選手との確執が続いた。
  • 1994年、開幕の西武戦で赤堀元之が逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなるが、途中球団新記録となる13連勝をしてこの年は2位に終わる。しかしこのオフ、野茂英雄が契約のこじれから退団、大リーグロサンゼルスドジャースに移籍する。詳しい経緯は「野茂英雄#近鉄退団に関して」を参照。
  • 1995年は上位争いに加わることなく、鈴木啓示も途中休養するなどチームは低迷、9年ぶりの最下位になる。佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは福留孝介を1位指名するものの入団拒否される。

[編集] 大阪ドーム時代・終焉

大阪ドーム移転するも、選手の年俸が高騰、1998年以降は観客動員数も増えなかった事もあり年間赤字が年々膨れ上がっていった。

  • 1997年、本拠地を大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)に移転。
  • 1999年、地元企業との提携、地元密着を目指し、チーム名を大阪近鉄バファローズに改称。また法人名も従来の近鉄野球株式会社から株式会社大阪近鉄バファローズに改称(その後、2003年1月株式会社大阪バファローズに改称)。佐々木恭介が監督辞任。
  • 2000年、近鉄最後の監督となる梨田昌孝が就任、チームは2年連続最下位に終わる。
  • 2001年、圧倒的破壊力を誇る「いてまえ打線」で、4度目のリーグ優勝を達成する。
  • 2002年中村紀洋がFA宣言、海外を含めて1ヶ月あまりの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び残留。また大塚晶則大リーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、大塚は中日ドラゴンズに金銭トレードされる。
  • 2003年、長年主砲として活躍してきたタフィ・ローズを年俸高騰から自由契約とする(読売ジャイアンツが獲得)。
  • 2004年、この年が近鉄としての最後の年となった。これらの詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)も参照。
    • 1月31日、ネーミングライツ問題発覚(後述)。
    • 6月13日山口昌紀社長(当時)によりオリックスブルーウェーブと合併する方向で準備を進めていることを発表する。
    • 8月10日、合併に関する基本合意書への調印が行われた。
    • 9月8日、オーナー会議でこの合併が正式に認められた。
    • 9月18日、19日、この問題によるプロ野球選手会のストライキが行われる。
    • 9月24日、大阪ドームでの近鉄最終戦(対西武)が行われ、3-2でサヨナラ勝ちする。
    • 9月27日Yahoo! BBスタジアムの対オリックス戦が近鉄としての一軍の最後の試合となった(2-7で敗れる)。
    • 9月30日藤井寺球場で最後のNPB公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われた。
    • 11月8日、オリックスと楽天の間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。
    • これらは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。
    • このシーズンを最後に、日本一に輝くことなく55年の歴史に幕を閉じた。

[編集] 球団愛称

  • 創設時の愛称・パールス(Pearls)は、近鉄沿線の伊勢志摩の特産品である真珠にちなんだもの。現在でも「プロ野球史上最も弱々しい球団愛称」などという声が少なくない。
  • パールスに代わる新しい球団愛称を公募したところ、1番多かったのが「猛牛」と呼ばれた新監督・千葉茂にちなんだバッファローズだった。ところが当時の球団幹部が「『バッファローズ』では表記が長すぎる」と言ったため、2文字減らしてバファロー(Buffalo)になった。千葉辞任後に「これからは監督だけが猛牛になるのではなく、チーム全員が猛牛にならなければならない」という理由でバファローズ(Buffaloes)となった。

[編集] シンボルマーク・マスコット

ファルルとカペロ(2000年撮影)
ファルルとカペロ(2000年撮影)
  • 球団のシンボルマーク「猛牛マーク」(なお球団広報物では「ツノマーク」と表記)は千葉茂が監督に就任した1959年に、「バファロー」の新チーム名称に合わせて千葉の親友であった岡本太郎がデザイン。千葉の述懐に依ると銀座のバーで、デザイン料10万円で依頼したと言う。以降球団が解散する2004年まで、球団旗やユニフォームなどで使われ続けた。日本一に輝いた時に姿を公開することとなっていた「猛牛マーク」を横から見たような「サブマーク」が有ったが、公開されず球団と共に消えた。西武鉄道系のようにグループのバスタクシーなどに猛牛マークを入れる例は少なく、運送会社である近鉄物流の車両や伝票に見られた程度であった。
  • 大阪ドーム移転前(1976年1996年)のマスコットはユニフォームを着た少年「バッファくん」(近鉄の野球帽・ユニフォームを着、バットとグラブを持ち片足を上げた少年)。初期のデザインではバットを握った右手の指本数が1本足りなかったが、後に改作された。一応着ぐるみも作成され、ファン感などでも登場してはいたが今一つファンの脳裏には残っていない様である。ちなみにこのマスコットに似ているということで、中村紀洋の愛称になったこともある。なお、バッファくん登場前には鼻息をふかして突進する姿の猛牛のマスコットを使用しており( - 1975年)、1975年後期優勝の記念乗車券券面には西本幸雄監督の顔と伴に印刷されている。
  • 球団マスコットがモチーフ。大阪ドームへの本拠地移転後、以下のキャラクターが登場。キャラクターデザインはアニメトムとジェリー」などを手掛けたアメリカハンナ・バーベラ・プロダクションによるものである。なお、バフィリードだけは公募に依り命名された。
  • キャラクター着ぐるみ作成及び担当は明石家まんま朝おき太等を手がけた株式会社リップ
    • バフィリード(バフィ) - 背番号100、主人公。
    • ファルルリーナ(ファルル) - 背番号200、女の子のキャラクター。2000年以降ユニフォーム姿(ワンピースにベルト)に変更。
    • 他にバルバロック(バル)(男性)とカペロット(カペロ)(子供)の2人がいたが、いずれも2000年シーズンをもって登場が打ち切られた。
    • 球団合併により、各キャラクターも引退したが、バフィリードだけはオリックス本社に商標権が譲渡された。他キャラに尽いては近鉄本社が更新期限まで所有する状態となっている。

[編集] ユニフォームの変遷

  • 1950年1952年 球団創設期のユニフォームはホーム用が「Pearls」でビジター用はブルーで「KINTETU」(1952年限り)。ゴシック体の「KINTETU」は1957年まで使用される。
  • 1953年 左胸に「Pearls」と書かれた、サンフランシスコ・シールズを参考にしたユニフォームが登場。同時に縦縞となり、球団名がバファローとなった1959年まで使用。
  • 1954年1958年 左胸に「P」1文字の、フィラデルフィア・フィリーズを参考にしたデザイン。1958年には帽子のツバ、アンダーシャツ、ストッキングが赤くなる(途中から従来の物も使用)。1958年からビジター用ロゴが飾り文字に変更。
  • 1959年 千葉監督就任と同時に球団名をバファローに変更。ホーム用は「Buffalo」に変更されたが基本デザインは従来どおり。ビジター用は背番号の書体を変更。
  • 1960年1961年 縦縞を廃止。チームカラーを黒と黄色に変更。ビジター用の左袖が近鉄の社章から猛牛マークに変更される。
  • 1962年1965年 球団名がバファローズとなり、ロゴが「BUFFALOES」に変更。袖番号が付けられる。1965年からラインを黒に変更し、番号が胸に移動。
  • 1966年1973年 ロサンゼルス・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。同時にロゴも筆記体の「Buffaloes」に変更(藤井寺時代最後の1996年まで)。
    • 1968年より、三原脩監督就任時より、ホーム用の背番号、胸番号の角が取れ、丸型となる。
    • 1969年1971年 ヘルメットが紺地に猛牛マークが入ったものになる。
    • 1972年より、帽子のツバが赤くなる。
    • 1973年後期より、ラインが入るなどのマイナーチェンジが繰り返された。
  • 1974年1996年 西本幸雄監督就任時より、ニット式のベルトレスユニフォームが登場。袖部分のラグランスリーブが赤となり、首と袖に白ラインが入り、丸首プルオーバースタイルとなる。左袖には、炎と猛牛を組み合わせたマークが入る。
    • 1977年より 左袖のマークが猛牛マークになり、デサント社が開発した快適性、軽量化を図ったメッシュ素材の上着を、野球のユニフォームとしては世界で始めて採用する。
    • 1978年より 番号の上に選手名が入り、ベルトレスからベルト式になる。
    • 1978年後期より、帽子の地色が赤、前面が白、白部分のサイドに紺のラインが入り、紺色の「KINTETSU BUFFALOES」のロゴ、猛牛マークが入る三色帽に変わる。
      • 1979年1980年1989年の3度のリーグ優勝を果たしたゲンのいいユニフォームで、マイナーチェンジを繰り返しながら、23年の長きに渡り使用された。
  • 1997年2004年 大阪ドーム移転を機にフルモデルチェンジ。デザインはコシノヒロコが手掛ける。同時に球団カラーを「バファローズホワイト」、「バファローズオレンジ」、「バファローズネイビー」、「バファローズレッド」の4色と設定。デザインはそれに基づかれた。
    • 1999年より、球団名が大阪近鉄バファローズとなり、ビジター用が「Kintetsu」から「Osaka」に変更。これが近鉄最後のユニフォームとなった。また左袖には50周年記念のバフィーワッペンが入っていた。
      • ビジター用は当初紺と赤の2種類があり、金曜日から月曜日は紺、火曜日から木曜日では赤と使い分けられていたが、2000年以降は紺のみとなった(使い分けに関しては当初「ナイトゲームは赤、デーゲームは紺」とされたが、使用頻度の偏りを避けるために上記のようになった)。
      • 実は当初、ビジター用上着のデザインは赤だけであった(これはデザインを担当したコシノヒロコが、事前にバファローズのイメージカラーを調査したところ、「赤」という意見が大半を占めたため)。しかし、いざ完成してみると、当時の佐々木監督や選手たちから「東芝のユニフォームみたい」「プロが着るユニフォームじゃない」などと異論が続出し、選手たちがユニフォーム変更を拒絶しかける事態となった。その沈静化を図るため急遽紺が追加された。その後もファン感謝デーでこのユニフォームが初お披露目された際、ファンから「台湾プロ野球(のユニフォーム)だ」などと酷評され、優勝するまではこのユニフォームの評判は良くなかった。

[編集] チームの特徴

  • 1990年代以前は外様監督が多く、仰木彬以前の生え抜き監督はプロ経験のない藤田省三芥田武夫を除くと、加藤久幸と小玉明利の2人しかいなかった。仰木以降は鈴木啓示佐々木恭介梨田昌孝と生え抜き監督が続いたが、球団消滅により梨田が近鉄最後の監督となった。監督は「基本的に若手中心で」(補強はしない)というのを毎年命じられていた。
  • 打線は「いてまえ打線」(大阪弁。共通語で「やってしまえ」の意)と呼ばれ、特にリーグ優勝した2001年にはチーム防御率4.98とリーグ最下位ながらチーム打率.280、チーム本塁打数211と他チームを圧倒し優勝をさらった。この年は3番のタフィ・ローズと4番の中村紀洋だけで101本、3~7番では実に165本もの本塁打を叩き出し話題となった。ローズが本塁打王(55本)、中村が打点王(132打点)、主に5番に入ることが多かった礒部公一は得点圏打率1位(.417)の成績を残している。この年阪神監督・野村克也が自チームの貧打線に対し「(バックに)いてまえ打線があったら(グレッグ・ハンセルは)20勝している」というコメントを残したのも有名。1980年には前述のようにシーズン239本塁打の日本記録を打ち出すなど、本塁打の魅力をどこよりも認識させた球団であった。
  • 野茂英雄吉井理人大塚晶則、中村紀洋など、多くの大リーガーを輩出している。
  • 1970年前後に日生球場のナイター使用がプロ野球機構で問題になり、近鉄沿線の三重県愛知県へのフランチャイズ移転も検討されたが、愛知県は中日ドラゴンズの保護地域であるため許可を得られず断念した(但し名古屋での公式戦は地方開催扱いで1999年まで行われていたが、これは近鉄の営業圏内であった事と、中京にパ球団を持たないリーグ事情も勘案されていた)。1973年に藤井寺球場のナイター工事が着手されたが、地元の反対で完成は11年後の1984年にずれこんだ。
  • 日本一を経験していない球団では、最長の期間存続した。身売りの多いパ・リーグ球団としては、唯一親会社が変わらないまま歴史に幕を閉じた。
  • 2004年9月、北海道で行われた世界ラリー選手権(WRC)、ラリージャパンに、「チームバファローズ コットンファクトリー」としてプジョー・206で参戦したが、リタイヤした。当時の監督・梨田昌孝がプジョーを愛車としていたことが縁であった。
  • 最下位になったことが非常に多いチームであり、1950年の2リーグ分立以降では19回と、消滅したチームも含めて両リーグトップである。
  • 伝統的に速球派投手に強く、技巧派投手に弱い傾向にある。代表例の一人が松坂大輔で、松坂は日本での8年間で近鉄に対し11勝15敗で防御率も最も悪く、球団別の成績で唯一近鉄にのみ負け越している。逆に、近鉄が苦手としていた投手に星野伸之星野順治などの変化球投手が多く見られる。1989年の日本シリーズでも3連勝で迎えた第4戦で香田勲男に完封をされてシリーズの流れが変わってしまった。
  • 近鉄在籍経験選手による日本シリーズのMVP獲得は、近鉄が日本一を経験しなかったので、長い間輩出されなかったが、2007年の日本シリーズで中村紀洋が中日で初めて達成した。
  • プロ野球に理解のないフロントの体質に関しては、不満を持つ選手も多かった。野茂英雄は、先発日に藤井寺球場の駐車場に車を止めたところ、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求されたり、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われたこともある。佐々木恭介は、入団後初めてグランドに集まった際、フロントの訓示で「お前達野球クラブの選手は」と言われ、頭に血が上ったと述懐している。「ドン・マネー事件」での外国人選手に対する待遇のみならず、監督に三原が就任する以前、近鉄選手の移動は列車では当時の二等車(後の普通車)のみ(西鉄等は一等車、後のグリーン車を既に利用していた)だったことからも、選手に対する待遇の悪さは伝統的なことであったといえる。

[編集] 応援スタイル

  • 球団解散時には「暴れん坊将軍」のオープニングテーマを原曲とするI(1995年~)、タオルマフラーを持って踊るII(2000年~)、2種類の歌詞があるIII(2001年~)、ビハインドの場面で使われるIV(2002年~)、ビッグイニングの時に使われるV(2003年~)と5種類のチャンステーマが存在。III以降は「踊る牛」「笑う牛」(以上III)「紅の丑」(IV)「パニ牛」(V)とタイトルもついていた(代打のテーマにも「働く牛」というタイトルがついている)。IIはオリックスファンからも「ぜひ残して欲しい」という声が多かったため、球団合併後も引き続き使われており、「紅の丑」と合わせて高校野球の応援歌として耳にすることもある。
  • チャンス時のテーマ、三三七に長らく8時だョ!全員集合のオープニングテーマを使用していた。
  • 藤井寺球場でのホームゲームの場合、周囲が住宅地であったため鳴り物入りの応援が禁止されており、メガホンと声だけの応援スタイルを取った。

[編集] 球団名変遷と年度別成績

※銀地はリーグ優勝、順位の欄は左の数字が順位、右の数字はリーグ所属球団数。

年度 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 打率 防御率 本塁打
近鉄パールス
1950年 藤田省三 7/7 120 44 72 4 .379 37.5 .242 3.85 86
1951年 藤田省三 7/7 98 37 56 5 .398 33.5 .223 3.13 37
1952年 藤田省三
芥田武夫(注1)
7/7 108 30 78 0 .278 40.0 .243 4.06 37
1953年 芥田武夫 7/7 120 48 69 3 .410 22.0 .246 2.93 31
1954年 芥田武夫 4/8 140 74 63 3 .540 16.0 .247 2.66 23
1955年 芥田武夫 5/8 142 60 80 2 .429 39.0 .252 3.45 35
1956年 芥田武夫 5/8 154 68 82 4 .455(注2) 29.5 .226 3.17 48
1957年 芥田武夫
加藤春雄(注3)
6/7 132 44 82 6 .356(注2) 38.5 .225 3.22 35
1958年 加藤久幸(注4) 6/6 130 29 97 4 .238(注2) 49.5 .215 4.04 41
近鉄バファロー
1959年 千葉茂
林義一(注5)
6/6 133 39 91 3 .300 49.0 .229 3.68 48
1960年 千葉茂 6/6 131 43 87 1 .331 39.0 .236 3.61 69
1961年 千葉茂 6/6 140 36 103 1 .261(注2) 51.5 .229 3.96 68
近鉄バファローズ
1962年 別当薫 6/6 131 57 73 1 .438 21.0 .252 3.40 70
1963年 別当薫 4/6 150 74 73 3 .503 12.5 .256 3.44 98
1964年 別当薫 6/6 150 55 91 4 .377 28.5 .254 3.63 112
1965年 岩本義行 6/6 140 46 92 2 .333 42.5 .235 3.61 91
1966年 岩本義行 6/6 133 48 82 3 .369 31.0 .228 3.60 100
1967年 小玉明利 6/6 132 59 71 2 .454 16.0 .251 3.83 104
1968年 三原脩 4/6 135 57 73 5 .438 23.0 .234 3.28 84
1969年 三原脩 2/6 130 73 51 6 .589 2.0 .243 2.78 118
1970年 三原脩 3/6 130 65 59 6 .524 13.5 .233 2.98 108
1971年 岩本堯 3/6 130 65 60 5 .520 18.0 .241 3.21 151
1972年 岩本堯 2/6 130 64 60 6 .516 14.0 .248 3.07 123
1973年 岩本堯
島田光二(注6)
6/6 130 42 83 5 .336 6・6(注7) .237 3.83 113
1974年 西本幸雄 5/6 130 56 66 8 .459 5・4(注7) .230 3.63 131
1975年 西本幸雄 2/6(注8) 130 71 50 9 .587 3・1(注7) .246 3.09 115
1976年 西本幸雄 4/6 130 57 66 7 .463 5・4(注7) .245 3.04 102
1977年 西本幸雄 4/6 130 59 61 10 .492 3・6(注7) .245 3.31 92
1978年 西本幸雄 2/6 130 71 46 13 .607 2・2(注7) .266 3.21 115
1979年 西本幸雄 1/6(注8) 130 74 45 11 .622 1・2(注7) .285 3.70 195
1980年 西本幸雄 1/6(注8) 130 68 54 8 .557 2・1(注7) .290 4.96 239
1981年 西本幸雄 6/6 130 54 72 4 .429 6・4(注7) .253 4.10 149
1982年 関口清治 3/6 130 63 57 10 .525 3・2(注7) .258 4.11 151
1983年 関口清治 4/6 130 52 65 13 .444 29.5 .262 4.49 134
1984年 岡本伊三美 4/6 130 58 61 11 .487 16.5 .257 4.36 174
1985年 岡本伊三美 3/6 130 63 60 7 .512 15.5 .272 5.10 212
1986年 岡本伊三美 2/6 130 66 52 12 .559 2.5 .271 4.34 183
1987年 岡本伊三美 6/6 130 52 69 9 .430 21.5 .270 4.22 135
1988年 仰木彬 2/6 130 74 52 4 .587 0.0 .253 3.23 154
1989年 仰木彬 1/6 130 71 54 5 .568 0.0(注9) .261 3.86 157
1990年 仰木彬 3/6 130 67 60 3 .528 14.5 .275 4.34 181
1991年 仰木彬 2/6 130 77 48 5 .616 4.5 .265 3.46 157
1992年 仰木彬 2/6 130 74 50 6 .597 4.5 .247 3.69 155
1993年 鈴木啓示 4/6 130 66 59 5 .528 7.0 .258 3.62 145
1994年 鈴木啓示 2/6 130 68 59 3 .535 7.5 .274 4.24 169
1995年 鈴木啓示
水谷実雄(注10)
6/6 130 49 78 3 .386 32.0 .234 3.97 105
1996年 佐々木恭介 4/6 130 62 67 1 .481 14.5 .255 4.01 146
1997年 佐々木恭介 3/6 135 68 63 4 .519 7.5 .274 3.79 112
1998年 佐々木恭介 5/6 135 66 67 2 .496 5.0 .267 4.28 126
大阪近鉄バファローズ
1999年 佐々木恭介 6/6 135 54 77 4 .412 23.5 .257 4.54 151
2000年 梨田昌孝 6/6 135 58 75 2 .436 15.0 .262 4.66 125
2001年 梨田昌孝 1/6 140 78 60 2 .565 2.5(注9) .280 4.98 211
2002年 梨田昌孝
真弓明信(注11)
2/6 140 73 65 2 .529 16.5 .258 3.93 177
2003年 梨田昌孝 3/6 140 74 64 2 .536 8.5 .274 4.30 187
2004年 梨田昌孝 5/6 133 61 70 2 .466 17.0(注12) .269 4.46 121
1950年から2004年までの順位のグラフ
1950年から2004年までの順位のグラフ
  • 注1 開幕から9月16日まで藤田、9月24日から閉幕まで芥田
  • 注2 引分は0.5勝0.5敗で計算
  • 注3 開幕から6月20日まで芥田、6月22日から閉幕まで加藤(代行)
  • 注4 加藤春雄から改名
  • 注5 開幕から6月18日まで千葉、6月20日から閉幕まで林(代行)
  • 注6 開幕から9月26日まで岩本、9月28日から閉幕まで島田(代行)
  • 注7 前後期制のため、前期順位・後期順位の順で表示
  • 注8 ポストシーズン成績を参照
  • 注9 2位とのゲーム差
  • 注10 開幕から8月8日まで鈴木、8月9日から閉幕まで水谷(代行)
  • 注11 開幕から8月14日まで・8月17日から閉幕まで梨田、8月16日のみ真弓(代行)
  • 注12 レギュラーシーズン1位とのゲーム差

[編集] ポストシーズン成績

年度 試合名 成績 対戦相手
1975年 プレーオフ ○●●● 阪急
1979年 プレーオフ ○○○ 阪急
日本シリーズ ○○●●●○● 広島
1980年 プレーオフ ○○○ ロッテ
日本シリーズ ○○●●○●● 広島
1989年 日本シリーズ ○○○●●●● 巨人
2001年 日本シリーズ ●○●●● ヤクルト

[編集] タイトルホルダー

[編集] 最優秀選手

[編集] 最優秀新人

[編集] 首位打者

[編集] 本塁打王

[編集] 打点王

[編集] 盗塁王

[編集] 最多安打

タイトル制定(1994年)以後の該当者無し。 タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。

  • 土井正博(1964、1967)
  • 永淵洋三(1969)
  • 新井宏昌(1987)
  • ジム・トレーバー(1990)
  • 石井浩郎(1993)

[編集] 最高出塁率

[編集] 最多勝利打点

※1981年制定、1989年から廃止

[編集] 最多勝利

[編集] 最優秀防御率

  • 久保征弘(1963)
  • 清俊彦(1972)
  • 鈴木啓示(1978)
  • 山口哲治(1979)
  • 野茂英雄(1990)
  • 赤堀元之(1992)

[編集] 最多奪三振

タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。

  • 阿波野秀幸(1989)
  • 野茂英雄(1990-1993)
  • ジェレミー・パウエル(2002)

タイトル制定以前の該当者は以下の通り。

  • 鈴木啓示(1967-1972、1974、1978)
  • 阿波野秀幸(1987)

[編集] 最優秀勝率

※2001年をもって廃止され、翌年からは最優秀投手となった。

[編集] 最優秀投手

  • ジェレミー・パウエル(2002)
  • 岩隈久志(2004)

[編集] 最優秀救援投手

※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。

なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。

  • 鈴木康二朗(1984-1985)
  • 石本貴昭(1986)
  • 赤堀元之(1992-1994)
  • 大塚晶文(1998)

[編集] 最多ホールド(現最優秀中継ぎ投手

※1996年に中継ぎ投手の評価法としてホールドを導入、タイトルとして制定。2002年より最優秀中継ぎ投手に変更。

タイトル制定以後の該当者無し。

[編集] 沢村賞

  • 野茂英雄(1990)

[編集] 正力松太郎賞

[編集] 完全試合

[編集] 無安打無得点試合

[編集] ベストナイン

  • 小玉明利三塁手:1960、1962-1965)
  • ジャック・ブルーム(二塁手:1962-1963)
  • 高木喬一塁手:1965)
  • 土井正博(外野手:1967-1968)
  • 鈴木啓示(投手:1969、1975、1978)
  • 永淵洋三(外野手:1969)
  • クラレンス・ジョーンズ(一塁手:1974)
  • 佐々木恭介(外野手:1975、1978)
  • 石渡茂遊撃手:1977、1979)
  • 梨田昌孝捕手:1979-1981)
  • 栗橋茂(外野手:1979-1980、1982)
  • チャーリー・マニエル(指名打者:1979-1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1983-1984、1990)
  • リチャード・デービス(一塁手:1985)
  • 新井宏昌(外野手:1986-1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • 山下和彦(捕手:1989)
  • ラルフ・ブライアント(外野手:1989、指名打者:1993-1994)
  • 野茂英雄(投手:1990)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 石井浩郎(一塁手:1993-1994)
  • 中村紀洋(三塁手:1996、1999-2002)
  • フィル・クラーク(一塁手:1997-1998、指名打者:1999)
  • タフィ・ローズ(外野手:1997、1999、2001-2003)
  • 大村直之(外野手:1998)
  • 礒部公一(外野手:2001)
  • ジェレミー・パウエル(投手:2002)
  • 岩隈久志(投手:2004)

[編集] ゴールデングラブ賞

※1972-1985年はダイヤモンドグラブ賞

  • 有田修三(捕手:1975-1976)
  • 梨田昌孝(捕手:1979-1981、1983)