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プエルトリコ世界 > 北アメリカ > 中央アメリカ > 西インド諸島 > プエルトリコ(アメリカ合衆国領)
プエルトリコ(西・英 Puerto Rico) は、カリブ海北東に位置するアメリカ合衆国の自治的・未編入領域であり、コモンウェルスという政治的地位にある。ヴァージン海峡を隔てて東にヴァージン諸島が、モナ海峡を隔てて西にドミニカ共和国が存在する。首都はサン・フアン。 プエルトリコ本島、ビエケス島、クレブラ島、ドミニカ共和国との間のモナ海峡にあるモナ島などから構成される。
[編集] 国名自主憲法によるスペイン語名称は、Estado Libre Asociado de Puerto Rico(エスタード・リブレ・アソシアード・デ・プエルト・リコ)。このスペイン語を英語直訳すると Associated Free State of Puerto Rico となるが、米国議会等の政府機関はこの英語名称を使うことはなく、あくまで Commonwealth of Puerto Rico(コモンウェルス・オブ・プエルトリコ、プエルトリコ米国自治連邦区) である。通称 Puerto Rico(プエルト・リコ)。 日本語の表記は、プエルトリコまたはプエルト・リコ。漢字では波爾多黎各と表記される。 ヨーロッパ人の到来以前は先住民のタイノ族によってこの島はボリケン(Borikén)、またはボリンケン(Borinquen)と呼ばれていた。ボリンケンとは「勇敢なる君主の国」を意味する。スペイン語のプエルト・リコは「豊かな港、美しい港」という意味であり、語源は、一説にはクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がサン・フアンに入港した時に¡Qué Puerto Rico!(なんて美しい港なんだ!)と叫んだことに由来するといわれている。米西戦争後、アメリカに併合されてからはポルト・リコ (Port Rico) と地名表記も英語化されてきたが、プエルトリコ人の感情に配慮して1932年に英語でもプエルト・リコ (Puerto Rico) と表記されるようになった。 [編集] 歴史詳細はプエルトリコの歴史を参照 [編集] 先コロンブス期ヨーロッパ人の到達以前のプエルト・リコは南アメリカのギアナから海を渡ってカリブ海周辺の島々で生活していたアラワク族系のタイノ人が居住しており、島はボリンケンと呼ばれていた。 [編集] スペイン植民地時代
自治主義者フリオ・ビスカロンド
1493年11月19日のクリストバル・コロンによる到着以来、スペインやアメリカを始めとするヨーロッパ人によって開発が続けられ現在に至る。当初、プエルトリコ島は「聖ヨハネ(サンフアン)島」と呼ばれサン・フアン市街を「豊かな港(プエルト・リコ、プエルトが港(puerto は英語の Port)、リコは豊かな(rico は英語の Rich)という意味)」と呼ばれていたが、地図作成者の取り違えによって入れ替わってしまい、今の呼称になっている。[要出典] こうしてプエルトリコはコロンにより既に発見されたが、本格的な征服は遅れて1508年スペインから総督としてやって来たフアン・ポンセ・デ・レオンらのコンキスタドールによって征服がなされた。3万人ほどいたといわれているタイノ人は征服され、プエルトリコへの本格的な入植がはじまった。ポンセは島を「サン・フアン・プエルト・リコ」と呼んだ。 最初の入植地はサン・フアン港の近くにあるカパラに造られたが、1521年にサン・フアン・ビエホ(オールド・サン・フアン)に移された。スペイン人はインディヘナや黒人奴隷を使って金を採掘したが、1570年代に金が掘りつくされると以降はラテンアメリカでも珍しい定住型の農業植民地となり、この時期には生姜が輸出されるようになった。また同時にスペインにとって、インディアスの植民地を防衛するための重要な拠点となったこの島は、ハバナやカルタヘナ・デ・インディアス、サント・ドミンゴと共に16世紀後半からヌエバ・エスパーニャ副王領からの収益で要塞化され、モーロ要塞 (Castillo del Morro) の建設も開始された。 16世紀~18世紀にはイギリスやオランダの海賊の攻撃を何度か受けたが、フランシス・ドレーク卿の襲撃を撃退したように海賊の襲撃は成功せず、プエルトリコは一貫してスペインの植民地だった。1797年のイギリスによる攻撃を最後に以降100年近く平和の時期が訪れる。 1808年に勃発した半島戦争により、スペイン・ボルボン朝のフェルナンド7世がフランス帝国のナポレオン・ボナパルトによって退位させられたことをきっかけに、ラテンアメリカ大陸部のクリオージョに自治、独立の意識が芽生え、ベネズエラのシモン・ボリーバル、アルゼンチン(当時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州)のホセ・デ・サン=マルティン、メキシコのミゲル・イダルゴらがスペインからの解放戦争を行ったが、フランス領サン=ドマングでのハイチ革命の際には黒人奴隷の蜂起によって白人支配が崩壊したこと、ラテンアメリカ各地からの王党派の難民が多く亡命してきたことなどにより、スペイン帝国最後のインディアス植民地となったキューバとプエルトリコでは独立運動が発生しなかった。 プエルト・リコでは19世紀に入るまで小農民による自給自足的な経済が営まれ、スペインによる植民地支配も相対的に緩やかなものだったが、こうして流入した難民によって1833年には人口33万人を数えた。スペイン政府によってキューバと同様に、奴隷解放によって砂糖供給から没落したサン=ドマングに代わるためのサトウキビのプランテーションが奨励されたが、キューバに比べて資本集積の度合いが低かったために効率的なプランテーション形成が進まず、結果として国際競争力を確保できなかったため、キューバやペルーやブラジルの砂糖に押されて砂糖生産は停滞し、代わりに島中央部の山間部で小農によって行われたコーヒーが主要輸出商品となった。このため、キューバやブラジルと同様に黒人奴隷制度は維持されたものの、プエルト・リコでは砂糖プランテーションが発達しなかったために黒人奴隷の大規模な導入には繋がらなかった。 19世紀後半になると、同様にスペインの植民地だったキューバと連動した独立運動が起こり、1868年には山間部のラーレスで最初の独立蜂起が勃発した。スペイン当局は1873年には奴隷制を廃止したものの、もはやプエルトリコ人の独立への願いを止めることは出来なかった。やがてキューバの独立戦争がはじまると、プエルトリコでも反乱が起き、焦ったスペイン当局により、1897年にプエルト・リコ側とスペイン側の合意によって自治が認められ、1898年3月に自治政府が成立するが、同年4月にハバナで起きた戦艦メイン号の謎の爆沈事件により勃発したアメリカ・スペイン・キューバ戦争により、プエルトリコは8月にはアメリカに占領され、終結のパリ条約によりアメリカ合衆国の領土となった。 [編集] アメリカ合衆国領時代戦後、パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコでは、フォラカー法によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体された。キューバは1901年に合衆国の傀儡政権の下の独立が認められたが、プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となったのである。このため、プエルト・リコでは完全独立派、アメリカ合衆国を構成する一州への州昇格化、現状のまま自治権拡大派という、現在まで続く三大政治潮流が生まれた。 スペインから譲渡された後にはアメリカ合衆国の企業が進出した。1917年に制定されたジョーンズ - シャフロス法によって島民はアメリカ国民としての市民権を得たが、合衆国大統領選挙への選挙権は与えられなかった。また、市民権を得たがために所得税を免除されたものの、徴兵の対象となり、第一次世界大戦では二万人のプエルトリコ人が徴兵され、アメリカ軍の兵士として戦った。 1930年代には自治権拡大派が勢力を拡大し、自治拡大派のルイス・ムニョス・マリンは1938年に民主人民党を結成した。ムニョスは1940年の上下院選挙で勝利した。1946年にムニョスは民主人民党の綱領から完全独立を除外したため、党内の独立派がプエルトリコ独立党を結成した。1948年では初めて知事の直接選挙が行われ、民主人民党のムニョスが知事に選出された。 その後プエルトリコでは独立運動が激化し、国民党のアルビス・カンポスの指導により、合衆国のニューヨークへ渡ったプエルトリコ移民の手により独立のためのテロが繰り広げられた。事態を重く見た連邦政府は1952年にはアメリカのコモンウェルスとして内政自治権を付与した。ムニョス知事は合衆国資本を誘致し、工業化が進められたが、それでも満足な雇用が確保できなかったため、多くの農村人口がニューヨークなどの、アメリカ合衆国の大都市に移住した。 1967年に州昇格派によって新進歩党が結成され、1968年の選挙では新進歩党が勝利し、自治拡大派の民主人民党との二大政党制が誕生した。 1970年代に福祉制度の拡大が進み、プエルトリコ住民は連邦の社会福祉を生活の糧とするようになった。 現在も州昇格派、自治派、完全独立派が三つ巴の争いを繰り広げているが、現在のところ強いのは自治派や州昇格派であり、1998年にアメリカ合衆国の51番目の州昇格を巡る住民投票が行われたが否決された。 2000年11月に行われた知事選挙では、民主人民党のシーラ・カルデロンが当選し、初の女性知事が誕生した 2004年に行われた知事選挙では、民主人民党のアニーバル・アセベド・ビラが知事に就任した。 [編集] 政治詳細はプエルトリコの政治を参照 現在のプエルトリコはコモンウェルス(英:commonwealth、米国自治連邦区)という特別な立場にあり、プエルトリコ住民はアメリカ合衆国連邦(所得)税の義務を持たない代わり、大統領選挙への投票権はない。下院に本会議での採決権を持たない準議員を1人出すこと及び、大統領選挙の予備選挙では代議員を選出することが認められている。 州の行政権は知事が有し、知事は普通選挙によって選出され、任期は4年。再選規定は存在しない。立法権は両院制の議会が有し、上院の定数は28人、下院の定数は51人である。 主な政党としては、自治拡大派の民主人民党や州昇格派の新進歩党の他に、現在の様な植民地的地位からの独立を目指すプエルトリコ独立党などの独立指向の政党が存在し、ガブリエル・ガルシア=マルケスやエドゥアルド・ガレアーノらを始めとするラテンアメリカの知識人によるプエルトリコ独立支持運動もあるが、独立の機運は高まっていないのが現状である。 [編集] 地理詳細はプエルトリコの地理を参照 プエルトリコ島は大アンティル諸島の最東端に位置し、西はモナ海峡を超えてドミニカ共和国、東のヴァージン海峡を越えてヴァージン諸島が存在する。大アンティル諸島の中では比較的小さな島であるが、それでも9,104Km²の大きな面積を持つ。火山島であり、川が多い。国内最高峰のセロ・デ・プンタ山(1,338m)をはじめとする1,000m級の山脈があり、中央山脈によって分割されている。島の3/4が山岳地帯である。ビエケス島、クレブラ島、モナ島、モニート島、デセチュオ島などのプエルトリコ本島の周囲にある小島も含む。北部は雨が多く、熱帯雨林が形成されており、南部は乾燥し、サバナが形成されている。 亜熱帯に属し、平均気温は25.4℃ほどの過ごしやすい気候である。8月から10月はしばしばハリケーンが襲来し、多大な被害をもたらす。 [編集] 経済詳細はプエルトリコの経済を参照 ラム酒生産、観光、製薬、農漁業などが主な収入源である。特に観光業の占める割合は大きく、アメリカ合衆国に移住したプエルトリカンの送金も大きな収入源である。 [編集] 交通[編集] 観光州都はサンフアン。その他に、ビーチの綺麗なコンダド、著名美術館のあるポンセ、巨大原始林があるエル・ユンケ、そして世界一の天文台で有名なアレシボ(アレシボ天文台)等がある。 [編集] 国民詳細はプエルトリコの国民を参照 プエルトリコ住民は、アメリカ合衆国のパスポートを所持し、アメリカドルを使い、米国市民としての意識も高い。しかし、島の住人の大多数は公用語の一つである英語はほとんど使わず、スペイン語しか話さない。メディアを含め日常生活ではスペイン語が使われている。そのため文化的にはスペイン語圏の中南米諸国とのつながりが非常に深い。島の住人はスペイン系の白人からアフリカ系の黒人、タイノ系インディヘナ、そして最近増えつつある中国人まで、ありとあらゆる肌の色が共存している。 しかし、合衆国本土同様、人種差別は社会的問題である。実際、人種差別の激しいプエルトリコでは、女性の知事はあり得るが黒人の知事は絶対にありえない、と言われている。(2001年から2005年まで知事を務めたシーラ・カルデロン(es:Sila Calderón)は白人女性)。 [編集] 福祉貧富の差が激しく、島民の多くは政府提供の低所得者向け団地に住む。しかし、アメリカ領土として唯一「ユニバーサル住民健康保険制度」を持ち、島民たちは無償で医療サービスを受けられる。そのためにフランス領マルチニークやグアドループと同様に福祉植民地とも呼ばれている。 [編集] 文化詳細はプエルトリコの文化を参照 [編集] 食文化[編集] 文学コンストゥンブリスモによって生まれた詩人マヌエル・アロンソの『エル・ヒバロ』は、プエルト・リコのクリオージョ文学の古典とされている。 現在の作家としては、『マチョ・カマチャのグアラチャ』(1976年)などで知られるルイス・ラファエル・サンチェスが挙げられる。 [編集] 絵画代表的な画家としては、19世紀後半にセザンヌの影響を受けたフランシスコ・オジェールと彼の代表作『通夜』が、20世紀においてはラファエル・トゥフィーニョが挙げられる。 [編集] 音楽キューバ、中央アメリカ、コロンビア、ベネズエラ、ドミニカ共和国、エクアドル、ペルーなどのラテンアメリカ諸国で広い人気を持つサルサはニューヨークに移住したプエルト・リコ人が、キューバ音楽の伝統を受け継いで1970年代後半にニューヨークで完成させた音楽である。 1980年代にパナマで生まれたスパニッシュ・レゲエが、1990年代にヒップ・ホップやボンバ等の影響を受けて成立したレゲトンもプエルト・リコの音楽である。 [編集] 世界遺産プエルトリコには、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件ある。詳細は、ラ・フォルタレサとサン・フアン歴史地区を参照。 [編集] 祝祭日
備考欄の※は、アメリカ合衆国の祝祭日に由来することを示す。 [編集] スポーツ詳細はプエルトリコのスポーツを参照 19世紀後半にアメリカ合衆国で野球が始まると、まずキューバに波及し、続いてドミニカ共和国、プエルト・リコ、ニカラグア、ベネズエラにも野球が伝えられた。 [編集] 著名な出身者ボリクァ (Boricua)という言葉は、かつてスペイン人が入植する以前から住んでいる住民を意味していたが、現在ではプエルトリコ住民やプエルトリコ系もすべて含む。また、プエルトリコ系アメリカ人のうち、ニューヨーク近郊で育った人間は、ニューヨリカン (Newyorican)と呼ばれる。ボリクァもニューヨリカンも民俗的背景だけでなく、彼らの音楽や話すスペイン語訛りなど文化的背景も指す。 [編集] 音楽関連
ティト・プエンテ、マーク・アンソニー、ジェニファー・ロペス、エリック・エストラーダ、ファット・ジョーなどは、プエルトリコ人の親を持つニューヨリカンである。 [編集] 野球選手プエルトリコは、同じカリブ海のドミニカ共和国と並び、野球選手の「名産地」としても知られる。メジャーリーガーなど主なプエルトリコ出身の選手は次の通り。
[編集] バスケットボール選手プエルトリコはバスケットボール大国の一つにも数えられ、アメリカ選手権では米国に次ぎ、ブラジルと並ぶ3度の優勝を誇る。そのためNBAで活躍する選手も多い。
[編集] ボクシング選手1970年代以降、小国ながら多数の名世界王者を輩出している。伝統的にメキシコ人ボクサー(メキシコ系アメリカ人を含む)とライバル関係にあり、プエルトリコ出身のほとんどの有名選手は同階級のメキシコ系ボクサーと名勝負を残している。
[編集] バレーボール選手
[編集] 映画俳優
[編集] 脚注[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
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