ジョン・レノン

ジョン・レノン
ジョン・レノン、1969年
ジョン・レノン、1969年
基本情報
出生名 ジョン・ウィンストン・レノン→
ジョン・ウィンストン・オノ・レノン
出生日 1940年10月9日
学歴 リヴァプール・カレッジ・オブ・アート中退
出身地 イングランドの旗 イングランドリヴァプール
死没日・地 1980年12月8日(満40歳没)
アメリカ合衆国ニューヨーク
ジャンル ロック
職業 シンガーソングライター
ハウス・ハズバンド
担当楽器
ギター
ピアノ
ハーモニカ
ベースなど
活動期間 1962年1976年
1980年
レーベル EMI
事務所 アップル・コア
共同作業者 オノ・ヨーコ
フィル・スペクター
影響 エルヴィス・プレスリー
バディ・ホリー
チャック・ベリー
公式サイト www.johnlennon.com
著名使用楽器
リッケンバッカー325
ギブソン
J-160E
エピフォンカジノ
  

ジョン・レノン MBEJohn Winston Ono Lennon, MBE-ジョン・ウィンストン・オノ・レノン, 1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、20世紀に活動した歌手作詞作曲家ギタリストである。英国リヴァプール生まれ。ロックバンドザ・ビートルズ」のリーダー格のメンバーであった。身長は5フィート11インチ(約180cm)。

MBE(大英帝国勲章)受勲時の本名はJohn Winston Lennon, MBEオノ・ヨーコと結婚後ミドルネームのWinstonをOnoへ変更しようとしたが、認められずJohn Winston Ono Lennonと改名。

目次

[編集] 概説

世界で最も著名なシンガー・ソングライターの一人である。ビートルズ時代には、ポール・マッカートニーと主要曲の作詞作曲を担当し、「抱きしめたい」、「シー・ラヴズ・ユー」、リードボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」、「ヘルプ!」、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」、「愛こそはすべて」、「ジョンとヨーコのバラード」、「カム・トゥゲザー」等、数多くの曲を残した。 ビートルズ解散後は「イマジン」などの曲を発表する一方、妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。ギネスワールドレコードでは「最も成功したソングライター」としてチャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲(共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲(共作が25曲)と紹介されている。

1980年12月8日(現地時間)、ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前において、狂信的なファンに射殺された。

[編集] 生い立ち

1940年10月9日(18時30分)、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生時、父・アルフレッドは商船隊員として航海中で不在、母・ジュリアも他の男性と同棲していたため、ジュリアの姉であるミミ夫婦のもとで育てられることとなる。

1946年、アルフレッドが帰国し、アルフレッドに引き取られ数週間一緒に暮らすものの、ジュリアがジョンを連れ戻す。しかし母親と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫婦のもとに預けられ、父親もまた行方がわからなくなってしまう。

1952年9月グラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学したジョンは、ケンカばかりの不良と評判になっていた。1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家を行き来するようになる。ジュリアはジョンにバンジョーの演奏法を手ほどきし音楽への関心を向けさせることとなった。

1957年、処女作・「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は1962年デッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表されることとなる)。

クオリー・バンク時代の1957年3月、ビートルズの前身になるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成、7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで、共通の友人の紹介によりポール・マッカートニーと初めて出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。

エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリーバディ・ホリーと言ったアメリカロックンロールに夢中になり、勉学はどんどんおろそかになっていき、通信簿に載せられた成績は最低レベルだった。ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会う。

1958年2月、ポールの紹介を介してジョージ・ハリスンがクオリーメンに加入。

1958年7月15日、母・ジュリアは飲酒運転の車にはねられ死去。このジュリアの死は、ジョンの後の歌に大きな影響を与え、また1956年(14歳の時)に母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。ジョンの辛辣な性格やマザー・コンプレックス(年上の女性への憧れ)は、このような孤独な幼年期、少年期を過ごしたからだと言われている。

1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。

1960年1月にリヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人のスチュアート・サトクリフがメンバーに加わり、バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルバー・ビートルズ」と変わっていた。同年8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。サトクリフは画家になるため、1961年に脱退。

1962年6月パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月ピート・ベストが解雇され、リンゴ・スターが加入。

1962年10月5日「ザ・ビートルズ」としてデビューを果たす。

[編集] 最初の結婚

1962年8月23日、ジョンはシンシア・パウエルが妊娠したのをきっかけに彼女と結婚した。ジョンとシンシアの結婚はシンシアが一方的にジョンを愛するものであったと言われているが、シンシアは最近の自著「ジョン・レノンに恋して」でこれに反論し、ジョンによるシンシアへの熱いラブレターを掲載している。まずジョンがシンシアに声をかけ(その時すでにシンシアの方もジョンを意識していた)交際が始まったのである。二人は1968年に離婚している。

シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノン1963年4月8日に誕生した。ジョンは長男・ジュリアンに対して冷淡であり、ジュリアンはむしろポールと親しかった。ジュリアンは後にこう語っている。

「父さんが僕についてどんなふうに思っていたか、本当のところを知りたいと思ったことはない。非常に嫌なことを言われたんだ。土曜日の夜にウィスキーのボトルを開けたせいでお前が生まれてきたんだ、とかね。これのいったいどこに愛なんてあるんだ。ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ。父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、僕と父さんの写真よりもはるかに多い」

両親と生活したことのないジョンは、どうやってジュリアンと接すればいいのかがわからなく戸惑っていたという。 ポールと楽しそうに遊ぶジュリアンを見たジョンに「どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方が分からないんだ」そう聞かれたことがあるとポールは語っている。

因みに、ジョンとシンシアの仲が険悪で喧嘩ばかりしていた時、ポールがジュリアンを励ますために作ったと言われている曲が「ヘイ・ジュード」である。

[編集] キリスト発言

1966年3月4日ロンドンイブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューでジョンは次のような発言を行なった。

キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」

その発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト(キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びバチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。

「僕がもし、“テレビがイエスより人気がある”と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕はに反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

[編集] ジョンとヨーコ

1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止しその活動に一つの区切りをつけた後、ジョンは映画『How I Won The War(日本では1993年ビデオで初めて発表。邦題:『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や「空」の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示すこととなる。

二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間中より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。

ジョンにとってヨーコの存在は公的にも私的にも不可分となり、ビートルズのセッションにも影響を与えた。ビートルズのグループとしての音楽製作に他人が深く入り込むことに違和感を覚えた他メンバーとの間に不協和音を生じることも多く、マスコミや一部のファンから、ヨーコはビートルズ解散の原因として不当に責められることともなった。

1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に多くの時間を費やし、ビートルズは1970年に解散することとなる。

ジョンの本格的なソロ活動前に二人は実験的・前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3枚のアルバムを発表した。またジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンがギタリストとして参加している。

二人の共同名義の音楽作品は、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)があるが、『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』は80年代が希望に満ちた10年になるようにとのメッセージを込めた姉妹作ともいえる作品であり、ポップで力強いサウンドは、『ダブル・ファンタジー』がグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞するなど高く評価されている。

[編集] ソロ・キャリア

ジョンはビートルズ存続時の1968年にソロ活動を開始し、翌69年より1975年に活動を休止するまでプラスティック・オノ・バンドPlastic Ono Band)名義で作品を発表している。名称に異同があるがこのプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットであり、メンバーは流動的であったが、初期はベースにビートルズのデビュー以前からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイト(後にイエスに参加)、またはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。

1969年、シングル「平和を我等に」、「コールド・ターキー」を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~』(米10位)を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトンが参加しており、その模様の映像はDVDスウィート・トロント』に収録されている。

[編集] 1970年代

ビートルズ存続中の1970年2月に「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇した。

1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散したのちジョンは深い精神的ショックに陥るが、これと前後してアメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法、プライマル・スクリーム(原初)療法に参加。ここで幼少期の父母との別離に端を発する苦痛の根源と向き合い、それを「叫ぶ」ことで克服した結果、ジョンは次第に回復していった。約半年間の治療ののち、リンゴ・スター(ドラム)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。

続く1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始(発表は10月)。前作が余りに赤裸々な内容で思ったほどのセールスを残せなかったため、抑制的なボーカルとエコー処理、ストリングスを多用したサウンドに仕上げた結果、米1位、英1位、日1位と大ヒットを記録、ソロ最高傑作との評価も高い。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラム)、キング・カーティス(サックス)らが参加している。またこのアルバムの2曲に参加したドラマーのジム・ケルトナーが以後セッションに加わるようになる。

楽曲「イマジン」は、歌詞が無宗教的または社会主義的と誤解されることが多く、英国ではシングルの発表は1975年のベスト盤『シェイヴド・フィッシュ~ジョン・レノンの軌跡』発表時まで見送られ、米国でもアルバム発表後1ヶ月が経過してからシングル化されている(米国3位)。シングル「イマジン」は英国では1975年に5位を記録したあと、1981年に1位、1999年に3位を記録している。3回もトップ10に入った曲は他には同じくレノンの「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」(1972年4位、1981年2位、1999年3位)のみである。

1971年9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ビレッジのアパートで暮らし始めた。ここで多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合ったことで、ジョンは政治的活動に積極参加することとなる。大麻使用により10年間の禁固刑をうけたジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ州刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに71年12月)などが代表的なものだが、これに対し共和党ニクソン政権はジョンを危険分子とみなし、FBIの監視の対象とする。これは当時のアメリカがベトナム戦争の長期化・泥沼化が最大の政治問題となっていたこと、翌72年に大統領選挙が控えていたことから、ジョンとヨーコがこのまま反体制派に付き、民主党の勢いが増すことを恐れたことなどに起因するものと言われている。

1972年6月発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』は、こうした環境下で制作されたため(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックをつとめた)、政治的な作品となった。刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国グリーンカードにまつわる自身の問題などについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするニクソンと毛沢東の合成写真という過激なものであった。

ジョンとヨーコの政治的活動は、反体制派からの影響を強く受けてはいたが基本的に中立で、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったのだが、「人々に力を!民衆に権力を!」とデモ行進をする姿を見た共和党政権は、外国人左翼勢力による国家転覆活動とみなし、国外退去命令を下したのだった(これに対する抗告と裁判は1975年10月まで続き、ジョン側が勝訴している)。FBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されており、『ジョン・レノンの真実―FBI監視記録DE‐4~HQ‐33』(ジョン・ウィーナー著、角川書店2000年…現在絶版)で見ることができるほか、一連の事件をまとめた映画『PEACE BED/アメリカ VS ジョン・レノン』が2006年に公開された(日本公開は翌年)。

1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーと共に、精神障害児童を援助する2回の慈善コンサートをニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほかビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』として1986年に発表された。

1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言する。これは「バギズム」や「ドングリ・イベント」(ともに69年)といったヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アートを、より具体的なメッセージに置換し発信したもので、「ベッド・イン」(69年)や‘War Is Over(If You Want it)’(71年)の街頭広告に続く「考えよう」との直接的なメッセージだった。 

11月、アルバム、『マインド・ゲームス』を発表。この中ではゴードン・エドワーズ、マイケル・ブレッカーなど後年グラミー賞を受賞するジャズ・ミュージシャンを採用した。この前後、ジョンはヨーコのもとを離れロサンゼルスで生活を始め、いわゆる『失われた週末』をリンゴやハリー・ニルソンザ・フーキース・ムーンらと過ごすようになる。またリンゴのソロアルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供しジョージ、リンゴと共演した。

1974年にはハリー・ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュース、この中でのストリングスを用いたアレンジを組み合わせて「夢の夢」が作曲された。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』を発表し、この中から「真夜中を突っ走れ」、「夢の夢」がシングルカットされた。「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演したほか、ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作している。

また、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演し、これによりエルトンは3枚目の全米1位を獲得、彼のキャリアの確立にレノンは大きく貢献した。同時期、エルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」を共演した。エルトンの取りなしでコンサート後、ジョンはヨーコと再会、ニューヨークへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。この曲はジョンも共演したと噂されたが、実際はプロデュースだけである。長く未発表で、ファンの間では「幻の曲」とされたが、2007年発表の『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。また、リンゴのソロアルバム『グッドナイト・ウィーン』に参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした。

1975年、カバー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。この中ではレオン・ラッセルらと共演。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。

この時期にはデヴィッド・ボウイとの親交も深まり、ボウイの『ヤング・アメリカン』でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスに参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによるとスタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。

同年にはベスト曲集『シェイヴド・フィッシュ~ジョン・レノンの軌跡』を発表した。しかし、1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、前年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。

[編集] 1980年代

その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に「ジョン・レノン・アンソロジー」で発表されている。1980年になって音楽活動を再開。ショーンが偶然友達の家で見た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は1980年のインタビューの中で否定している。5年間の彼にとっての新しい経験の中で生まれたアイデアをもとに、チープ・トリックとセッションを重ねた。同年11月ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。この中ではキング・クリムゾントニー・レヴィンを起用している。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米2位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米10位)などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。また同アルバムは1981年グラミー賞年間優秀アルバム賞を獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。

また没後1982年に代表曲を集めた編集版『ジョン・レノン・コレクション』(英1位)、1984年にヨーコの編集により『ダブル・ファンタジー』の続編で共作名義のアルバム『ミルク・アンド・ハニー』(米11位・英3位・日1位)が発表された。

[編集] 殺害

1980年12月8日の午前中、自宅ダコタ・ハウスでジョンはローリング・ストーン誌掲載用写真のフォトセッション(撮影:アニー・リーボヴィッツ)に臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真(篠山紀信撮影)では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、まるでビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるもので、彼なりに初心に返って新たな人生を始めようとしているようでもあった。

ダコタ・ハウス
ダコタ・ハウス

フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、午後5時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「The Hit Factory」へ出掛けた。この時、ダコタ・アパートの前には顔見知りの雑誌カメラマンと、ハワイホノルル出身の精神疾患を患ったファン・マーク・チャップマンが待ち構えていた。彼は以前ボブ・ディランに対するストーキング行為に及んだこともあり、ジョンにとって最後の生演奏となった1975年のスタジオ・ライヴでは観客席にその姿を見せている。

チャップマンはこの時、ジョンのニューアルバム『ダブル・ファンタジー』を差し出し、ジョンのサインを貰った。この様子をカメラマンが撮影し、レノンの生前最後の写真は皮肉にも、数時間後に自分の生命を奪うことになる殺人犯とのツーショットになってしまった。

チャップマンは数日前にニューヨーク入りしており、宿泊したホテルの宿泊名簿の署名欄には、自らを「John Lennon」とサインしている。殺害当日の大半をダコタ・ハウスの近くで留まり、夕方にレノンにサインをもらったあと、両親を見送りにベビーシッターに抱かれて出ていたショーンとも握手をしている。

一方、レノン夫妻は「The Hit Factory」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、レノンは新作や近況についてはおろか、学生時代に結成したビートルズの原型となるスキッフルバンド「クオリーメン」のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについても、懐かしそうに語っている。そして皮肉なことに、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと、まるで数時間後に自らに降りかかる悲劇を予言するかのような発言を残している。なお、このインタビューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。

その後、チャップマンはレノンの帰宅を待つためにその場にとどまった。そして午後9時頃、セントラル・パークで行われた花火大会でドアマン(ホセ氏。ホセはチャップマンのことを知っていた)や通りにいた人々がいなくなったのを見計らい、アパートの前庭に忍び込んだ。午後10時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。レノンとオノが車から降りたとき、チャップマンは前庭に隠れ、レノンが彼の前を通り過ぎたとき暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると、を手に取り前に進み、両手で構え5発を発射した(チャップマンが撃った銃弾は特殊な弾で、ホローポイント弾―体内で弾が破裂する仕組みになっているもの―だった)。4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、レノンは「撃たれた」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。

警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、二人の警官が彼をパトロールカーの後部に乗せ近くのルーズベルト病院に搬送した。一人の警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、ジョンの声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージ輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で午後11時過ぎに死亡した。伝えられるところによれば、レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』だったという。

事件後チャップマンは現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自らの単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときにも、事も無げに"I just shot John Lennon."(「ジョン・レノンを撃っただけさ」)と答えた。ニューヨークWABCのリポーターはチャップマンを取り調べた警官の談話を聞いた。警官は「すごくことも無げにしていた」と語った。もう一人の警官はチャップマンを「田舎のイカれた奴」と語った。

病院でレノンの死を伝えられたオノ・ヨーコは泣き叫んだという。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョン・レノンが死亡したことを確認した。博士は「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。

ジョンの射殺に関しては、当初、ケネディ大統領暗殺事件と同様のケースという主張や、「FBI関与説」なども持ち上がったが、現在は、冒頭の記述のように、「マーク・チャップマンの単独殺害」として結論づけられている(しかしオノや息子ショーン、先妻との息子ジュリアンはそれを信用していないといわれている)。また、当時「チャップマンはレノンの熱烈なファン」という報道と共に様々な憶測も飛び交ったが、同犯人はある種の精神疾患的な症状もあり、「熱烈なファン」という説明自体も疑問視されている。

この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。マッカートニーの第一声は「くだらない(It's a drag.)」であり、この発言に対しては批判もあった。後に彼は音楽誌のインタビューでこの発言の真意について、以下のように述べている。

「うまい政治家ってたしかに頭の中に警報ボックスが埋め込んであって、何か言う前にそれを通してみて、発言が新聞の見出しになったさまが思い浮かべられるんだろうな。どうもパッとしないなと思えばうまく編集して喋れたりして。僕もたまにはそういうことができることもあるけどね、ああいう瞬間には僕の警報ボックスは窓の外に飛んでっちまうんだ。家にいてTVのニュースをただ見てるなんて、僕は嫌だった。ジョージ・マーティンが電話してきてセッションをキャンセルしたいかって言うんで、僕は『まさか。今日は一日中、働いてなきゃ』って言った。僕らはとにかく仕事を続けたわけだけど、みんな全く悪意なく冗談言うんだよね。『来週はビデオだ、よーし一発いくぞ』とか。一発いく、なんて聞いた途端に『ああーっ』だよ。ロを開くごとに、『一発』だとか『やられた』だとか、そういったとんでもない言葉を言ってしまうみたいでさ。遂に『だめだ、家に帰ろう。今日はもう仕事はなしだ』って思った。で、スタジオを出た途端に誰かが車の窓からマイクを突っ込んできて、それを僕は不覚にもつかんで…だって僕はそんなに内気な人間でもないし、ファンにむかって『どうもありがとう、僕は大丈夫だよ』って言うつもりだったんだ。でもともあれ、口から出た言葉は『ああ、くだらない』だった」

事件を境に、マッカートニーとジョージ・ハリスンはレコーディング作業を中断し、マッカートニーに至ってはこれをきっかけに自らのバンド、ウイングスを解散してしまうことになる。カナダに滞在中だったリンゴ・スターは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。その後、マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻のリンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲として発表した。

また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズに至っては「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」とまで発言している。

日本ではザ・ビートルズ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。

[編集] レノンの音楽性の発展

[編集] ビートルズ時代

1960年代、ジョンはロックンロールに大きな影響をもたらし、このジャンルをそれまでの限界を越えて発展させた。ポールと共に、20世紀において屈指の影響力のあったシンガー・ソングライターであり、ミュージシャンであると広く認知されている。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることが多い。ジョンのこうした作風とポールの全体として楽天的でポジティヴな作風とは、ビートルズの楽曲においてしばしば好対照をなしている。

ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの緊密な共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるサビのメロディーがジョンによるものであることが知られている。ジョン本人が触れているように、「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」などで聴かれるややブルージーでマイナー調のメロディーは、共作者ポールの楽天的に聴こえるメロディーに陰をつけ曲に哀愁感をもたらした(1)。

中期においては両者の共作のあり方は変化し、ポール主体の楽曲「ミッシェル」「恋を抱きしめよう」「シーズ・リーヴィング・ホーム」「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」などにおいては、ミドル・エイトと言われるブリッジの部分の作詞作曲をレノンが担当しており、その中でも「ミッシェル」の繰り返されるリフレインは代表的なものである(1、2)。またレノン主体の楽曲では「デイ・トリッパー」「イン・マイ・ライフ」「愛こそはすべて」などがある。また効果音を「イエロー・サブマリン」で積極的に導入した(3)。

後期においては単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニバース」「ビコーズ」のような透明感のある美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」のようなブルース・ロックの名曲を発表した。 (参考文献 (1)集英社刊:「プレイボーイ」(1981年)1月号「ジョンレノン・ラストインタビュー」(2)シンコーミュッジック刊:「ビートルズの軌跡」(1979年)所収1971年インタビュー (3)東芝EMI 「リボルバー」ライナーノーツ所収)

[編集] ソロ時代

こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」の路線を継ぐ「マザー」「コールド・ターキー」「ウェル・ウェル・ウェル」「真実が欲しい」「アイム・ルージング・ユー」のようなヘビーなロックを発表している。そして、何より「インスタント・カーマ」や「ノーバディー・トールド・ミー」のような早口のラップ調のボーカルが特徴の軽快なロックが「愛こそはすべて」の路線を引き継ぐレノンの真骨頂を示している。

また「ラヴ」「ウーマン」「グロー・オールド・ウィズ・ミー」のような美しいメロディーからなる曲がある一方でビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ不安定な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967~68年)にその原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。

また、レゲエカリプソのリズムはビートルズ時代の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」での有名なレノンのオルガン・プレイが先鞭をつけたが、さらに「マインド・ゲームス」における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある(1)。ブラック・コンテンポラリー調の曲が多い『心の壁、愛の橋』の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式(2)を踏襲した複雑な楽曲構成に挑んだ。

こうした中でレノンの作曲の到達点の一つといえるのは、わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」である。この中で半小節ごとに変化する和声進行に従って、ギターの美しいアルペジオのフレーズが奏でられ、最終部で半音階上昇などカデンツにさまざまなテクニックが駆使された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている(1)。他に惜しまれるのは最後の名曲といわれる「グロー・オールド・ウィズ・ミー」がシンフォニー調に作編曲される予定であったものが未完に終わったことである。この曲は後にジョージ・マーティンによりストリングスが書き加えられた。

参考文献(1)ジョン・レノンラスト・インタビュー (文庫) ジョン レノン (著), John Lennon (著), オノ ヨーコ (著), アンディ ピーブルズ (著), Andy Peebles (著), 池澤 夏樹 (著) 中公文庫(2)ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著 東京書籍

[編集] 編曲・プロデュース

『レット・イット・ビー』でのアレンジを高く評価したレノンはビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」に続いて、ソロ前期『ジョンの魂』『イマジン』ではプロデューサーにフィル・スペクターを起用した。スペクターはストリングスを用いた厚い音による編曲が特徴で、「音の壁(Wall Of Sound)」の代名詞で知られる。しかしながら、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りに徹していた。

ソロ後期の『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックンロール』、復帰後の『ダブル・ファンタジー』では、セルフ・プロデュース(『ロックンロール』では一部をフィルスペクターが担当、『ダブル・ファンタジー』はジャックダグラス、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった(1)。これが、かえって共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デビッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど)があることはレノンの人柄を忍ばせる(2)。マインド・ゲームスに参加したスピノザなどのインタビューによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねて優れたオーケストレーションを造り出し(3)アダルト・オリエンテッド・ロックの先駆となった(4)。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ(5)、分散和音的なアプローチを積極的に取り入れている。『心の壁、愛の橋』ではストリングス、ホーンも多用した厚い編曲を行った(1)。


一方、スタジオワークとしてソロ前期、後期を通じて共通しているのはレノンのボーカルの録音である。「ジョンとヨーコのバラード」以来受け継がれたエコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していた(6)ことが伺える。

このようにソロ時代にもレノンの音楽性は新たな展開を示したといえるが、次節にあるようにレノンは何よりもポール・マッカートニーの楽曲をよく研究しておりマッカートニーもレノンがどのように自分の作品を評価しているかを考慮しているという発言があり、ビートルズ解散後も「レノン=マッカートニー」はなお健在していたといってもよいかもしれない。

参考文献 1)シンコーミュージック刊:ジョン・レノン全曲解説 ジョニー ローガン (著), Johnny Rogan (原著), 丸山 京子 (翻訳)、2)シンコーミュージック刊:ギターマガジン、トニーレヴィン特集、インタビュー所収記事、3)シンコーミュージック刊:ギターマガジン、ジョンレノン特集、スピノザ氏インタビュー所収記事、4)ミュージックマガジン刊:レコードコレクターズ2002 vol.12, No.12, 96ー99サエキけんぞう氏、5)ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著、6)ビートルズのつくり方」1994 山下 邦彦 著

[編集] ポール・マッカートニーとの関係

ビートルズ後期及び解散後におけるマッカートニーとの確執が、二人の関係を語る上で頻繁に取り沙汰される。確かにビートルズ解散直後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあう(『ラム』でのマッカートニーのレノンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ」におけるマッカートニー作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がレノンを指すなど)深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインのマネージメントにおける問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かう中、1970年代も中頃になると、ビートルズ再結成の可能性を肯定するような発言がみられるようになり、マッカートニーが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行なった際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行ない、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。

またレノンは常に「ポールは弟であり、彼との確執は『兄弟ゲンカ』みたいなもので、他の奴にとやかく言われる筋合いはない」というスタンスを保ち続けていた。マッカートニーを卑下する発言をする者に対しては「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言している。レノンとは飲み友達でオノとの別居中は共同生活を送っていたハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンは「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ」、また「俺が音楽業界で達成した偉業はひとつ。『ポール・マッカートニー』を発掘したことだ」とも発言している。

ポールのほうも、1970年代末頃、共作の意思をジョンに電話したりしている(ジョンが多忙で、ヨーコが取り次がなかったので、ジョンには伝わってない可能性もある)[要出典]

ビートルズ解散後レノンとマッカートニーが揃って公の場に姿を見せることは一度もなかったが、1980年のマッカートニーのヒット曲「カミング・アップ」が、レノンに音楽活動を再開させる切っ掛けになったとも言われる。またマッカートニーは90年代に入ってレノンの「平和を我らに」、ビートルズ時代はレノンがボーカルを担当した「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「カム・トゥゲザー」などをカバーして、全世界のファンの胸をうった。

[編集] ディスコグラフィ

EMIミュージック・ジャパン(旧 東芝EMI)リリース作品についてはhttp://www.emimusic.jp/international/artists/johnlennon/も参照。

[編集] オリジナル・アルバム

[編集] ベスト盤

[編集] ライブ盤および未発表音源集